×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

宇喜多氏・陶氏「下剋上」の軌跡

戦国武将の領土変遷史㉓

守護代陶氏が守護の大内氏を討つ下剋上の経緯

 

 天文20年8月29日、大内氏の重臣・陶隆房(すえたかふさ)、杉重矩(すぎしげのり)・内藤興盛(ないとうおきもり)らの軍勢は、山口の大内氏館に乱入。主君・大内義隆に反旗を翻した。陶隆房らは、なぜ主君に背いたのか。

 

 これは、相良武任(さがらたけとう)を始めとする義隆の側近衆に反感を抱き、ついに謀叛に及んだとされる。武任は、右筆として大内氏に仕えていたが、後に、奉行衆や評定衆にもなり、重用されていた。

 

 義隆は公家的生活を重んじ、臨時課役を行ったとも言われ、その事が、陶氏らの反感を買ったともいう。また重臣の訴えも、側近を介さなければ、主君のもとに届かないという状況になっていたとも言われており、その事も、陶氏ら重臣が、義隆や側近衆を憎む原因になったであろう。

 

 山口を追われた義隆は、長門国の大寧寺(だいねいじ)に追い詰められ、自害して果てる。新たな当主に擁立されるはずだった子の義尊(よしたか)も捕らえられて殺された。

 

 新当主に迎えられたのは、義隆の甥・大友晴英(はるひで)だった。晴英は、豊後の大友義鑑(よしあき)と大内義隆の姉との間に生まれていた。天文21年2月、晴英は豊後を立ち、山口に入り、大内の家督を継承する。晴英は大内義長(よしなが)、陶隆房は晴賢(はるかた)と改名した。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

『歴史人』2025年11月号

名字と家紋の日本史

本日発売の11月号では、名字と家紋の日本史を特集。私たちの日常生活や冠婚葬祭に欠かせない名字と家紋には、どんな由来があるのか? 古墳時代にまで遡り、今日までの歴史をひもとく。戦国武将の家紋シール付録も楽しめる、必読の一冊だ。